2011年に考えたいこと

ピッグスペシャリスト 山下哲生


日本の養豚産業の変遷


 私が養豚とかかわりはじめたのは、1976年の大学卒業と同時でした。それも、自分が農家、あるいは畜産志望というわけではなく、文学部だったので、ただ就職先がなく、当時は、人手不足ということもあってか、面接のみで受け入れてくれた畜産会社に就職したというのが動機でした。
 それから10年はひたすら拡大、発展を続ける養豚産業、中でも企業的な養豚産業と息をぴったり合わせ、求めるままにいくつかの企業養豚を渡り歩きつづけてきました。時には自らの裁量で、母豚600頭の一貫農場のプラン策定から設計さらに建設、従業員の採用、教育、農場の運営まで行えるという非常にラッキーな仕事もできました。

 上り調子の時は、いろいろな情報が行きかい、勉強会、品評会なども盛んに行われ養豚業界の横の交流も活発に行われました。
 1988年に母豚数が120万に近づこうという時を境に、日本の豚の飼養頭数は右下がりになっていきました。このころはバブル景気の真最中で、なおかつ悪臭問題で養豚が公害問題の槍玉に上がっていたころです。
 公害は「自分の利益のために、他人の基本的な生活を侵害する」ところにあります。当時は公害調査で問題になる施設のベストスリーにいつも養豚が顔を出していました。人に迷惑をかけて儲けてなんになる? 他にもいい仕事はたくさんある。こんな声の中で、特に都市近郊の中小零細な農場の多くが経営を断念していきました。一方元気のある都市近郊の若い経営者たちが、当時飼料コンビナートが整備されてきていた青森の八戸などを中心に土地を求め新規の大規模農場の建設を始めたのもこの時期でした。

 また、大規模な種畜会社、飼料メーカーなどが、経営を「応援」するという形で飼料コンビナートが形成された北海道の苫小牧、茨城の鹿島、鹿児島の志布志などを中心に大規模な農場新設の後押しをし、この頃から養豚の主力は、農家養豚から企業養豚に、さらに 一貫経営が生産の70%を占めるまでに至り、一貫経営は常識と考えられたときでした。


教育重視、「養豚塾」120講座開講


 そんな最中、1990年にイギリスにわたり、きっちりとした養豚教育を行うために、当時有名であったイギリスのビショップバートン大学で勉強する機会がありました。その動機は、とにかく日本では、どこにも体系だって、きっちり養豚の勉強をさせてくれるところがなかったのです。このままでは中途半端になってしまうと考え、海外から日本を見つめ直したいという思いからでした。
 その結果に関しては目からうろこでした。指導してくれる教師たちがまず、何らかの形で畜産現場とかかわりをもっていました。従って頭でっかちではなく、それぞれの学生の要求に応じ柔軟なプログラムを提供してくれました。そしてびっくりしたのは、教えに来る「講師」が現場を支えている人で構成され、例えば飼料メーカー、畜産機器メーカーなどの技術員、セールスマンなどがそれぞれの確信をもって、養豚を語る姿には、まぶしいものがありました。
 授業とセットになった宿題も抽象的なものはなく、具体的な農場をテーマにいかに、自分が問題解決するか=経営を行うかに重点が置かれました。またアニマルウエルフェアーの本場はイギリスですから、豚の観察方法は色々勉強することができました。

 この中で考えたのはストックマンという「誇りを持って畜産に従事し、畜産が好き」という 職人的なプロ集団としての畜産従事者の存在でした。イギリス養豚を象徴する放牧養豚は、ひとつの完成点といえます。
 こういう誇りを持ったプロ集団を養成していくことが、産業の基盤を高める。日本でもやろう!! と考え養豚塾を開講したのが1993年でした。
 とにかく少人数でも、専門テーマにしぼり、最盛期には年間16講座近くを行いました。

2010年は、私の多忙から、1講座も開講できなかったですが、延べで120講座近くを開講してきました。
 受講に関しては、特に制限を設けず、終了してからの豚ホルモンをほお張りながらの交流会は名物となりました。「養豚は勉強すれば儲かる」「教育に対する投資は、5倍の効果を生む」など、情報、人に対する投資は目には見えないものの、すごい効果を発揮します。問題は、生産システムほど日本では養豚の教育システムが整備されていないことです。特に現場からの実践に裏づけられた情報の還元が少ないことが残念でなりません。

 養豚塾とコンサル活動にあけくれていた90年代は、各種疾病の発生で養豚の生産基盤がかなりゆれた時代でもありました。特にオーエスキー、PRRSなどのウイルス性の疾病は、経営の大小を問わず、特に養豚の盛んな養豚密集地域で猛威をふるっていました。
 この中から衛生対策として一貫経営から、繁殖と肥育経営を分離する動きも再び出てきました。特に設備よりも立地が経営に大きな影響を及ぼす現実にぶちあたりました。また、生産者同士が交流する機会も病気感染のリスクを避けるという見解もあり、急速に減った気がします。


努力すれば道は開ける


 そうこうしているうちに、2005年自ら農場を経営することを決意しました。それも、種豚生産を基本に母豚30頭の一貫経営を始めました。コンサルタントが自ら経営に乗り出し失敗したら「共倒れ」との危機感で、とにかく今日までどうにか、経営を維持し、そのかたわらで、コンサル活動もごく限られた範囲ではありますが続けています。
 これまでの経験からいえることは、養豚経営を決めるのは、規模、システムではなく、養豚に対する情熱を持ち続けること、それと情報を求め、かつそれを考え消化しようとする努力です。
 日本の養豚の標準が母豚数は150頭近くになります。逆にみれば、母豚でも150〜200頭近くの母豚を飼養する経営でないと、競争に勝ち残れないことを示唆しています。また、よほどのことがないと新規で養豚場を建設することは資金面もさることながら、地域の建設同意を取ることで難しくなっています。
 その一方で、経営をやめ、放置してある畜舎も農村部では結構見ることができます。これらの設備は、小規模でたくさんの豚を飼うことは難しいですが 処理に関しては自前でできる程度のものが多いようです。ただ、一般に労働効率は良くないといえます。
 うまくこれらの施設を再活用、また少ない資金で自前の労働力を使いながら改修していけば、設備資金はそれほどかかりません。
 そして、大切なことは高く売れる豚を作ることです。経営の基本はコスト削減と販売単価をアップすることがともに必要です。そのためには、どういう豚であるか、どう生産するか、そして使いたい・売りたい・協力したいというバイヤー、ユーザーを開拓することです。
 そのためには、小規模の小回りが利く経営の方が「販売単価のアップ」という面では、目標を達成しやすくなります。まず、家族、親戚、友人、ご近所といった目の届く範囲でからはじめ、近隣のイベント、物産館などで販売することも検討できます。評判が良くなればバイヤーとの話もやりやすくなります。
 また、餌に関しても、少量ならば色々な副原料を確保することもでき、それにより「こだわり」の豚を作ることも可能です。
 養豚のシステム化は完成したものと考えるのではなく、まだまだ想像力を働かせ、生産努力、販売努力をしていけば道は開けます。
 新しい年を迎えるとき、まず豚たちに「ハローピッグ」と大きい声で挨拶しましょう。そして、にっこり笑えば、豚たちも健康になり、増体も順調になります。
 私の経営は小さい経営ですが、志(こころざし)は高く持っています。産業の興廃を決定するのは、そこに働く人だと思います。
 養豚産業に入りたいと希望するストックマン、ストックウーマンには、研修、雇用の紹介なども行っています。また農場でともに働ける人も求めています。あきらめることのないチャレンジ精神が道を開くものです。